今回は幸福感と自由意志について書いてみようと思います。
テーマとしている言葉の枠組みが広く大きいため
切り口にする言葉のセンテンスによってはまったく異なったプロセスで記述することも出来ると思います。
内容
幸福感について
“幸福感を定義” することは、
おそらく言葉を使う以上、非常に難易度が高く困難だと思っています。
今のところ… という言い回しが隠れていますが、
将来的にできるようになるかどうかは不明のためわかりません。(笑)
そのため、今回はどういう時に幸福感を感じるか
“どういうときに幸せに感じる?” というケースを基準に話を進めたいと思います。
幸福感の定義は求めないでね。すみません。
現代を生きていると ” 幸せに感じるときは嬉しくて楽しいとき ” と、
” 幸せ=感情 ” に紐づけがちです。
理由は様々ですが、
それを記事として書く機会はまたにさせて頂きます。
ざっくりと言ってしまえば、
外部刺激に対する情動が当たり前になりすぎているからです。
・あれが欲しい
・これを買いたい
・どこに行きたい
・どういう風に見られたい
こういった欲求が、自分の内側から自然に湧き上がった欲求ではなく
“広告や他人からの目線を意識した外部刺激から生まれた欲求” になっている可能性がある。
という意味です。
どういうときに幸せを感じますか?
いくつかパターンを出してみましょう。
・彼氏(彼女)ができた
・彼氏(彼女)からプレゼントをもらった
・子供が生まれた
・高級レストランで食事した
・車を購入した
これらは状況的な変化に対する反応として “幸せ” と感じているんでしょうね。
では次はどうでしょうか
・朝目がさめると彼氏(彼女) が朝食を用意してくれている
・子供の成長を日々感じることができる
・今日も夜ご飯を家族で食べることができる
こちらは状況的な変化はないが “幸せ” を感じることができていますよね。
この2つの枠組みの大きな違いはなんでしょうか。
大切なことは
“幸福感は必ずしも感情に紐づいているわけではない” ということです。
例え他人が「そんなの何ももらってないのに幸せだなんて間違ってる!!」と声を大にして訴えかけてこようとも、
幸福感はその人の中にしかありません。
『いや、そう言われましてもそう感じたんで…』
としか言いようがないわけです。
(サプライズや特別な日など) 状況的な変化が起こることで感情が動き、
その動いた感情に紐づいて “幸せ” と感じることもあるし。
感情が動いていないにも関わらず “幸せ” を感じることもあります。
つまり、情動と幸福感は切り離されて捉えられるべきであると言えますし
幸福感は体感とも言えるでしょう。
自由意志について
はい。続けて自由意志です。
自由意志は “自分の内側から主体的に決めた” ということですね。
”自分で決めた!” と、ただそれだけです。笑
結論を先に書いてしまうと(おい)
自由意志により自分で決めることで幸福感を助長させることができますよ。
ということです。
では、自由意志を少しひも解いてみたいと思います。
自由意思を現代的に捉えるなら
“もう既に人間はバイタルな課題に常に直面していいない” と言えるでしょう。
そういった国もあるかもしれませんが、
この記事を読んでいただける日本語を日常的に使いこなしている方の中にはほぼいらっしゃらないと前提させてください。
狩猟の時代は
-生きるために食べ、食べるために狩り、狩るために危険を冒してでも外に出る-
というバイタルな課題と常に向き合うのが当たり前でしたし
戦争の時代は
-自分で決めるのではなく参加する以外の道が存在しなかった-
-かなり強引に強行しない限り不参加を勝ち取ることができなかった-
と、
これもまた常にバイタルであり生存的な問題を捉える必要性があったわけです。
今の時代を生きているので
生存的な課題を常に感じているわけではありませんね。
つまり、自分が何をするか、何を目指すかはすべて自分で決めていいということになります。
・どういう物を手に入れたくて
・どういうスキルを身につけたくて
・どういう人と縁を持ちたくて
・どういう生活を実現させていきたいか
自分の内側から自然に湧き上がってきた欲求を素直に受け止めて
それを目指していいということですね。
もちろん、相手ありきの欲求もあります。
恋人や結婚、ビジネスパートナーなどがそれにあたります。
そういったものは自分と相手に 50% ずつの権利があるため
かならず実現までたどり着けるわけではありません。
が
まずは “自分のことを自分の意志で決める” ことが大切だと言えるでしょう。
自分側が持ち合わせている 50% の権利の内訳は、
“あなたが 100% コントロールすることができる” ということでしょう。
念のためですが、自由意志は責任が伴います。
そのため反社会的な模範を示しているわけではなく、あくまで人間としての倫理観を維持した上での話をしています。
自分の意志で決めるとはどういうことでしょうか
私のことを棚に上げるわけではありませんが
“自分の意志で決めていると思い込んでいる人” も世の中にはたくさんいらっしゃると思います。
・あれ(物) が欲しい
・これ(スキル) ができるようになりたい
・あのような人と双方向の関係性を築きたい
・このような(想像上) 生活リズムを実現したい
そのような
内側から自然にわきあがった欲求に繋がっていくような行動を選択されてますか?
こういった自分の内側から自然にわきあがる欲求をコーチングで want to と呼んでいます。
逆に “やらなければならない” “やるしかない” といった、
自分の無意識の欲求を強制的にフタするようば行動を選択してしまうこと
を have to と呼びます。
want to の定義は “誰に止められてもやりたいこと” と定義されているので、
自分の内側から自然にわきあがった欲求を絶対に無視してはいけません。
その欲求に素直に行動を始めることで、
信じられないようなエネルギーが溢れてきます。
無意識がなにを望んでいるかを知る
では、あなたや私はいったい何が欲しいのでしょうか…
それは既述した want to での行動を繰り返して行わない限り
自分自身で判断することは至極困難であると言えるでしょう。
・自分が幸せになりたい
・他人を幸せにしたい
・自分と他人を幸せにしたい
・すべての人に幸せを感じてもらいたい
どこの階層の欲が
あなたの潜在的な欲求としてわきあがってくるのでしょうか…
それを知るためには want to で定義されている
“誰に止められてもやりたいことに目を向け続ける” ことです。
欲しいと思ったものにアプローチし続けていい
幼少期のころから欲しいと思っているものが変わっていない
という人は非常に珍しいでしょう。
人間は大人になっていくなかで情報を取り込み続けます。
必ずしも欲している情報のみではなく、無意識的に取り込んでいる情報も膨大にあります。
そんななか
“10年前に欲しかったものと、今欲しいと感じているものは違います” ね。
では、いつ欲しいと思っているものに変化が起きたのでしょうか?
その境目を探すのは超人的な観察力と洞察力が必要かと思います。
(というかその2つがあれば捉えることができるのか、今の私にはわかりません…)
突然雨が降ってきた。
雨雲が西から東へと流れてきて雨のゾーンに入ったのなら
どれくらいの距離を移動すれば雨雲から抜けることができるのか
あるいは上空の雲が雨雲に変わった瞬間なのか
これをデータ化された情報を見ずに証明することは難しそうです。
いつどのタイミングで変わったのか、
もしくは新しく発生したのかを見つけ出すのはまたの機会にしましょう。
今日 「欲しい知りたいやってみたい」 と感じたものと
明日 「欲しい知りたいやってみたい」 と感じるものは必ずしも一致しなくてもいいのです。
時間の経過とともに変化するのが当たりまえで、固定化はできません。
とても抽象度の高い “すべての人にとっての幸福感” を求めると固定化はできるのかもしれませんが、
より具体的な行動レベルでは異なって当然です。
昨日手に入れたいと思ったことと
今日手に入れたいと感じていることが違っていてもいい。
大切なことは “じっくりと時間をかけてやりきりたいことを見つけ出す” ことです。
そのためには欲しいと感じたものにしっかりアプローチして
その結果(うまくいったかいってないかはさておいて)
自分がどう感じたのかを冷静に観察することに注目したいのです。
自由意志は決断です。
決断はあなたや私が自らのために使用することのできる精神的なツールです。
お気づきだと思いますが、すべての内容に “他人は介在しない” のです。
自分の内側から自然にわきあがってきた “欲しい” に、素直に反応するための方法論です。
つまり、自分で決めるということです。
主体的に反応を自分に求めることで
どんどんと沸き起こってくる “want to のエネルギー” を日常的なものにしたいですね。
まとめ
自分で決めたことならば want to である以上、
幸福感が得られる可能性は格段に高くなるということになります。
それを感じているときは無理に言語化する必要もありません。
後悔とは
・他人からの進言に違和感を感じながら行動した
・自分からやりたいと感じていることを行動できなかった
どちらかのパターンで発生することがほとんどなのではないでしょうか。
自分のやりたいことに目を向けて
情動的ではない幸福を感じながら、また新しい want to にチャレンジをする。
そのような日常を楽しんでいきたいものですね。